久しぶりに今月の一作で、もう古い作品ですが、節分つながりで選びました。
節分といえば、近年「恵方巻」なるものがすっかり定着していて、この時期、デパート、スーパー、コンビニでは店頭に山積みされています。
しかし、恵方巻というのは、起源については諸説あり、花街での芸妓相手の遊びから生まれたとも言われていて、本当にごく一部の風習だったようです。
私がこの風習を知ったのは、小林信彦さんの連作集『唐獅子源氏物語』 新潮社(1982年12月初版発行、私が買った↓は1983年1月発行の第4版)中のタイトルロール作品「唐獅子源氏物語」です。
これは、ヤクザが社内報を作ったり(これは実際にあったことです)、放送局、映画制作などを手掛ける、ヤクザ、というよりヤクザ映画のパロディ連作「唐獅子株式会社」シリーズの1つです。
このシリーズは小林さんがキレッキレの頃で、大変面白く、未読の方は是非手にとっていただきたいところです。
もっとも、風俗や流行をパロったものの宿命として、時の経過により当時の風俗や流行自体が分からない方も多くなっているでしょうから、そういう方は、このシリーズ最初の連作集「唐獅子株式会社」の新潮文庫版から入るのをお勧めします。巻末解説で筒井康隆さんがパロディのネタ解説を詳細にしておられますので、時が経過した今となっては、こういう原典解説があったほうが楽しめると思います。
この「唐獅子源氏物語」の作中で恵方巻が以下のように描かれています。
関西にある日本最大の暴力団組織・須磨組(言うまでもなく、あの組がモデルです)傘下の二階堂組組長である主人公が須磨組の大親分宅を訪ねたシーンで
「私たちが紫色の絨毯を敷きつめた書斎に通された時、女中が現れて、『少々お待ちください』と言った。
『いま、皆さんで巻き寿司を食べてらっしゃいます』
女中は笑いをこらえている。たぶん、関西の生まれではないのだろう。
節分の夜に、家族そろって、巻き寿司を、一本ずつ、無言で食べると、その年は無病息災で過せるという言い伝えに、私たちは従っている。年によって、方向は変わるのだが、今年は、たしか、北北西に向かって食べるはずである。
『おまえ、巻き寿司、食うたか』
私は原田(※主人公の部下のインテリヤクザ)にきいた。
『ぼく、寿司が苦手でして、マシュマロですましました』
『すました、て、えらい違いやないか。巻き寿司は、長いまま、食うのやぞ』
『知ってます。けど、格好悪いもんですよ、あれは』」
このあと、新しいもの流行りもの好きの大親分が大滝詠一さんの「ナイアガラ音頭」をバックに出てくるのですが、小林さんは東京っ子ですので、この節分の風習は縁のないものだったらしく、笑いをこらえている女中の認識は小林さん自身のものだったのでしょう。
小林さんは、このシリーズを書くに当たって、当然ながら自身で相当関西の言葉や事情を調査したうえで、大阪生まれの翻訳家・稲葉明雄さんに大阪弁の監修をしてもらっていますし、関西のお笑いの生き字引といわれた香川登志緒さん(TVの「てなもんや三度笠」等や松竹新喜劇の脚本家で、この人の話し方の面白さからこのシリーズを着想したということです)ら関西の古い方達と親交がありましたので、この節分の風習をそうした調査や交流の中で知り、関西以外の人間にはおかしく思って、作中の「くすぐり」として使ったのでしょう。また、原田のように、若い人がこのような食べ方を嫌ったということも、当時、関西では実際にあったのかもしれません。正直、カッコいいとは思えませんからね。
ただ、お気づきでしょうが、ここでは関西の人間である主人公自身も「巻き寿司」と言っていて、「恵方巻」とは言っていません。
実際にそうした呼び名があったのなら、小林さんには稲葉さんら関西人のブレーンがいましたから、この作中でもそのような表現が出てくるはずです。すると、関西では、昔から単に「巻き寿司」と言っていたのでしょう。
これを読んだ当時大学生だった私には未知の風習であり、関西では変な風習があるもんだ、と呆れましたが、もちろん広島にはそのような風習はありませんでした。
それがいつの間にか全国に広まって、これはどうしたことかと不思議に思っていたのですが、どうも広島の某コンビニ店が唐獅子源氏物語の数年後の1989年に「恵方巻」という名前で売り出したのがこのブームの始まりのようです。
広島発のブームということは最近知った話で驚きましたが、「恵方巻」というネーミングが大変効果的だったと思われ、バレンタインチョコと同様、今やその経済的波及効果は絶大なものがあります。
私自身は、丸かじりは食べにくいですし、風習としても、どうも違和感があるので、遠慮申し上げているのですが、今年は南南東が恵方だそうです。
以 上